メンタル

幽霊志願者【小説】

仕事を辞めてから丸々1ヶ月。
時々自分を、成仏できない幽霊のようなものに感じる。

もうこの世からは居なくなったはずなのに、
まだこの世にやり残した未練があってただ囚われて、留まって、ふよふよ浮かんでいる。

この世は幽霊がいても全然構わないでいてくれる。
存在に気がついて目で追う人もいるが、
大体の人は何もなかったように私の向こう側を見つめている。

人の死とは何か。
昔から様々な議論があるが、私はこの世への自発的な関与をする手段を失うことだと思っている。

まだ中学1年生の時、父が突然事故死した。
あの頃私は死を、もう父と喋れなくなることだと解釈していた。

私は大人になった今でも父に語りかける。
しかし父にはもう、返答をする手段はない。

時々、周りをひらひらと舞う蝶々に父の気配を感じることもあるが、
わかっている。これは父の意志ではない。私の勝手な妄想だ。

仕事を辞めたことで、この世への自発的な関与を自ら絶った。

一緒に住んでいるパートナーとしか話をしていない。
パートナーも私の2ヶ月も前に仕事を辞めていたので、
2人っきりでこの世で幽霊をしている。

毎日フラフラと外に出てはコーヒーを飲んで人の観察をしたり、
本を読んだりおしゃべりをしたりしているだけ。

社会と関わらなければ悲しみも苦しさもない。
しかし、この世への執着が手放せないからまだ肉体を持っているのだろう。

私は何にまだ執着しているのだろう?
ずっと遠距離でまともに一緒に過ごしてこなかったパートナーとの時間?小さい頃に夢見た漫画家、大学生の時に夢見た家具屋さん?

川が見えるカフェで遅い朝ごはんを食べながら、
定年ぐらいの元気なおじいさんが、初老の紳士のコーチングを受けている様子を盗み聞く。

車のメンテナンスや孫の世話で大忙しな休日の話を笑顔でした後、
「そろそろ、自由が欲しくなりました」
ぽつりとつぶやく。
「お金とあとは、踏ん切りだけなんですがね…」
そして早口に旅行や仕事の小話へ話題は移り変わっていく。

幽霊でいることは、自由でいることだろうか。
私のように、大好きな人とだけたくさんの時間を過ごして
社会とのコミュニケーションを最小限にして
散歩したり、本を読んだりするだけの生活を自由と言うのであればそうなのだろう。

俗に言う引退とは、働かないことだ。
おじいさんの言った「自由」も、おそらくそういう意味だろう。

だけど私は、別に働きなくなくてこの生活を選んだわけではない。
結果的に幽霊のような状態になったこの、
孤独で、完結した静かな世界で暮らしたくて仕事を辞めたんだ。

そこには寂しさも退屈さもないことを、これからの幽霊志願者にはお伝えしておきたい。

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